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反論「もう働くな」

2003512

宇佐美 保

 

 雑誌「すばる」(19994月号)に、“宮澤賢治一巨大な三日坊主のセクシエアリティー”と銘打って、ロジャー・パルバース、西成彦、井上ひさし、小森陽一の4氏の座談会が掲載されていました。

その中で、賢治の詩「もう働くな」(文末にこの詩の全文を引用させて頂きます)に対しての検討が加えられていました。

そして、そこでの彼等の見解に、私は、呆れ果て、異議を唱えるのです。

 

 第一番に反対しなければならないのは次の箇所です。

 

 

西 僕には『もうはたらくな』という詩がよくわからないです

小森 それはどの辺でしょう。

西 どうつながっているのか。日本語が理解しにくいのです。

パルパース そうです。翻訳者はつらいんですよ(笑)。

西 (働くことの卑怯なときが/工場ばかりにあるのでない/ことにむちゃくちゃはたらいて/不安をまぎらかさうとする、/卑しいことだ)。これは主語が全くないですから、翻訳不可能な日本語です。

井上 これをパルパースさんは、どういうふうな英語にされたんですか。

パルパース 賢治が農民に対して「もうはたらくな」と言っていると解釈しました。「stop working」と翻訳しました。

井上 いい訳ですね。「stop」つまり「ちょっと待て」ということですから。

僕だと「don’t」を使ってしまいそうです。

小森 微妙な違いですね。

パルパース 「don’t」ではないんです。

小森 「stop」だと「ここで止まってちょっと考えてみろ」という、井上さんが今おっしゃったニュアンスが出てきますね。

パルパース そのとおりです。しかし、この詩の文字下げの後の文章は、賢治が自分自身に言っていると解釈したわけです。

 

 私は本当にこの4人の方々は、賢治の他の作品もしっかり御理解出来ているのかと不安になりました。

何しろ、この詩は私に取って最も分かり易い詩を、この方々はとんでもない解釈をされていると思ったのです。

だってそうではありませんか!?

この詩は全編賢治自身に語りかけている詩ではありませんか!

“もう働くな!”と賢治が賢治自身に命令しているのではありませんか!

 

 しかし、この何でもない事を理解するには、次のような井上氏の誤解があってはならないのです。

 

井上 その前に、

(働くことの卑怯なときが/工場ばかりにあるのでない)

 とありますね。これは田んぼで働きすぎることが卑怯な行動になるときがある、と言っているんじゃないでしょうか

 肥料設計が当たっても「ありがとう」と言ってもらえない。不作になると「弁償しろ」という。みんな、宮澤のひとり息子だから、不作のときにはすこしごねれば金がふんだくれると見ている。かわいそうな人です。農民の百人中八十人は、賢治のことを「おれたちの仕事があいつにできるものか」「農学校に勤めていればいいのに」と思っていたのではないでしょうか。中には賢治のように本気で農村生活を変えていきたい人もいたでしょうが、そういう人を選別できなかった賢治の人のよさ、大きさがこの二つの詩(注、井上氏は“この「もう働くな」と「火祭り」は、賢治が自分がやった農民運動の決算報告書だと読めます。”とこの前に語っています)から痛いほど伝わってくる。

 みんな自分よりもひどい生活をしている者がいれば、それで安心している。劣等比較じゃだめなんだと言っているんですね。それでは前へ進めない。

 

このように「働くことの卑怯なときが/工場ばかりにあるのでない」を解釈してしまったら、賢治の趣旨から逸脱してしまいます。

素直に、賢治が書いた次の字句を読めばよいのです。

「働くことの卑怯なときが/工場ばかりにあるのではない

ことにむちゃくちゃはたらいて/不安をまぎらかそうとする、卑しいことだ」と賢治は書いているではありませんか!

この行動は賢治の行動なのではありませんか!

何しろ、「おれが肥料を設計し/責任のあるみんなの稲が/次から次と倒れたのだ……」というのですから、“その自責の念とみんなからの非難お声の襲いかかってくる事への不安をまぎらかそうと働く事へ逃げ込もうとする(更には、そんなにまで働く賢治を農民が見て“可哀相に許してやろうよ”とまでも期待しているとさえも見える)そんな態度を賢治自ら卑怯で、卑しいと言っているのではありませんか!

 

 そして、更にこねくり回した解釈をされておられます。

 

小森 パルパースさんにお聞きしたいのは、『もうはたらくな』の中で今の自己救済とのかかわりで言うと、

(けれどもあゝまたあたらしく/ 西には黒い死の群像が湧きあがる

春にはそれは、恋愛自身とさへも云ひ/考へられてゐたではないか)

 とありますね。ここには、さきほど性欲の問題で議論したことも浮かび上がってきます。

パルパース そうです。愛と死のね。

井上 小森さんは、貧乏者の子だくさんと読んだわけですね。

小森 はい (笑)。ここにはいくら子供を増やしても、餓死していく人も多いという、人口問題と生産性の問返があります。

 

 何故こんなところで性欲やら、貧乏人の子だくさんが出てくるのでしょうか?

西には黒い死の群像が湧きあがる」とは、苦労して育てた稲をなぎ倒す雨雲が、又、西の空に現れてきたと言っているだけではありませんか!?

そして、春の田植えの時期には、その雨雲の到来を恋い焦がれていたのにと言っているのではありませんか?!

 

 こんなに意味明瞭で素晴らしい詩を、何故4名の方々は曲解されるのでしょうか?

只一点、私は賢治のこの詩に不満があります。

それは最後の「どんな手段を用いても/辨償すると答へてあるけ」の字句です。

賢治一人の力では、弁償なんか出来ず結局は父親の力を借りることになります。

いつもどこかにそんな甘えが賢治にあるように感じてしまうのが、私には残念に思える点でもあります。

 

 それにしましても、4名の方々の迷走ぶりは未だ続き、次なる結論(?)までも導き出してしまわれます。

 

井上 この「はげます」というのは「もっと思想性を持て、考えろ」ということなんです。人間には「精神労働」と「肉体労働」と「性欲」の三つがあって、農民は、精神運動をしないで、肉体労働と性欲だけで生きていると、賢治は変な分類をしている。つまり、セックスと肉体労働だけではいけない、精神労働もしないとだめだ、というので羅須地人協会をつくったのですが、それがいま危機に瀕している。よく解釈すると「農民よ、考えろ」と励ましてもいます。

パルパース 失敗したわけですから、考え直すということですね。

井上 世の中の仕組みについて考えることを怠って「ただむちゃくちゃに働いていれば何とかなる」という労働観を改めないといけないという感じも受けます。

西 その「はげまし」は、自分を励まして、とも読めなくはない。ちょっと、この詩はお手上げですね。パルパースさんは、翻訳されたから意味を確定されたわけですが。

パルパース 翻訳は一種の演出ですから。一つの解釈にそっていかないとだめですから、しようがないのです。

西 しかし、恋愛から死というふうに流れていく、そのベクトルは動きませんね。井上さんは、農民を愛していた時代から決別への移行といわれましたが、そのベクトルは固定していると思います。

 

 「もう働くな」を賢治が自分で自分に命令していると素直に読み取ればこんなにも酷い御四方の曲解は生まれなかった筈と存じます。

 

 

(補足)

 

『もうはたらくな』

 

もうはたらくな

レーキを投げろ

この半月の曇天と

今朝のはげしい雷雨のために

おれが肥料を設計し

責任のあるみんなの稲が

次から次と倒れたのだ

稲が次々倒れたのだ

働くことの卑怯なときが

工場ばかりにあるのでない

ことにむちゃくちゃはたらいて

不安をまぎらかさうとする、

卑しいことだ

  ……けれどもあゝまたあたらしく

    西には黒い死の群像が湧きあがる

    春にはそれは、

    恋愛自身とさへも云ひ

    考へられてゐたではないか……

さあ一ぺん帰って

測候所へ電話をかけ

すっかりぬれる支度をし

頭を堅く縛って出て

青ざめてこわばったたくさんの顔に

一人づつぶっつかって

火のついたやうにはげまして行け

どんな手段を用ひても

辨償すると答へてあるけ

 

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